QUI EST "IN" QUI EST "OUT" :monologue
2011-04-17T14:47:40+09:00
cherchemidi
par 梶野彰一
Excite Blog
avril en vain me voue à l'amour
http://cherchem.exblog.jp/16202607/
2011-04-17T14:38:00+09:00
2011-04-17T14:47:40+09:00
2011-04-17T14:39:03+09:00
cherchemidi
monologue
「ああ、虚しい4月に、僕はこの愛を捧げよう」
先日来日していたジェーン・バーキンが繰り返し歌った「ラ・ジャヴァネーズ」の詩の中にこう歌う一節がある。「AVRIL EN VAIN」。虚しい4月。
とても気持ちのよい陽気のもとで桜を眺めたり、お酒を飲んだり、いつもの4月を送っているようで、何かが全然違う。映画を観て、音楽を聴いて、写真を撮って、フレンチ・ジョークで笑ったり。飛行機に乗ったり、いち早くはだしでエスパドリーユを履いたり、思い立って京都にも桜を見に行ったけれど。
ありふれた言い方を許してもらうなら「いつもと同じ風景が、まったく違って見える」みたいに。
かねてより自分はストレス耐性がきっと平均より低いんだろうと思っていたけど、メルド、それが実証されていくような日々だ。
ジェーン・バーキンはこの40年で初めて桜の季節に来日し、その桜を愛でる一方、日本を襲った惨事を憂い、自然のパラドックスを語ってくれた。
「言葉は要らなくなり、詩人の役割はなくなる。/多くの人が、詩そのものになって、きらきらと生きる。」と言っている人もいたけれど(※)、まだ今の僕には言葉も詩も必要だと思う。僕は詩のようにきらきら生きられないから。
「ああ、虚しい4月」
こんなかたちでセルジュの「ラ・ジャヴァネーズ」を聴く春なんて。
| photo: sk |
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ki ko to wa
http://cherchem.exblog.jp/16082183/
2011-03-21T12:19:50+09:00
2011-03-21T12:20:21+09:00
2011-03-21T12:20:21+09:00
cherchemidi
monologue
アトリエに戻っても机の上も本棚も散乱し、何から手をつけていいのか分からない状態だった。
一連の避難と帰宅による疲労というのは、やはり単なる言い訳かもしれないけれど、こんな時期なので、なんとなくいろんな仕事が停滞気味である。
パリ、ニュー・ヨーク、マルメ…まだ返事をしていないままの友人からの気遣いのメールも残っている。
三連休を合わせて計画していた、松山=広島=福岡=熊本の旅行も直前まで迷っていたけど、結局すべてフライトをキャンセルしてしまった。行こうと思っていた小さな映画館からは休館のメールが来ていた。
情報は欲しいけれど、テレヴィで繰り返される悲惨なニュースと「ぽぽぽ〜ん」のプロパガンダにもやや辟易する。
普段から積みっぱなしの本を手に取るにはいいタイミングかも知れない。
それとも文字を追いたくなったのは、月が大きくて眠れなかったせいか。
(あんなに短いのにも関わらず)ずっと読みかけだった朝吹真理子の「きことわ」を読み終えた。
日本の純文学めいたものはほとんど手に取らないけれど、彼女の可憐な様とそのヴェリー・フレンチなプロフィール(サガンの訳で知られる朝吹登水子さんを大叔母さまに持ち…など)を知ってどんな作品か興味を持っていた。
芥川賞の前のドゥ・マゴ文学賞の「流跡」から。
「きことわ」は冒頭から流麗で不思議な魅力にあふれた小説に引き込まれた。ひらがなや漢字の使い分けや、精緻なことばえらびが、まるで色を選んで水で滲ませていく水彩絵の具で描かれた絵を見ているような感覚で話が広がっていく。絵画的ではあるけれど、平面的ではなくて現実と幻想と夢と、時間軸や空間が入り交じって、あらすじや話ではないぼあっとした圧倒的空気を受け取ったような読書だった。
葉山のバスや逗子からの湘南新宿ライン、サントリーホール、Bunkamuraのドゥ・マゴ…そして極めつけにマニュエル・ゴッチングの「E2-E4」のレコード盤が出てくるなど、なにかと心をくすぐってくれた。
読書に逃避し、アトリエは片付かない。
月の明るい夜は過ぎ去って、生温い春の雨が降っている。
| photo: sk |
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la catastrophe...
http://cherchem.exblog.jp/16064561/
2011-03-17T05:05:00+09:00
2011-03-19T09:35:03+09:00
2011-03-17T05:05:55+09:00
cherchemidi
monologue
Twitterでフォローして頂いている方はご存知のとおり、11日、旅行先の岩手県平泉にて大地震に遭遇し、14日まで一関市にて避難生活をしていた。
ちょうど中尊寺、毛越寺への参拝を終え、東京への帰路の直前、JR東北本線の平泉駅の駅舎でその激しい揺れを感じた。
それからほんの数分後、ちょうど新幹線に乗り換えるための目的駅だった「一ノ関」行きのバスがそのロータリーに入って来た。
地震の規模さえ知らなかったその時点では、まだ新幹線に乗りさえすれば夜には東京には帰れると思いこんでいてそのバスに飛び乗った。
ちょうど小学生の帰宅に重なっていた時間で、多くの小学生もその平泉の駅前からバスに乗っていた。何人かの女の子は泣きじゃくっている。
バスは小さな旧道を通って南下して行く。
おそらくその20分ほどの道のりで、車窓から見えた通りや町の様子に被害の大きさを初めて知って恐ろしくなってくる。
ガラスは割れ、塀や壁は崩れ、屋根は落ち…住民たちは寒い中、表に出て余震に体をふるわせている。
市内に入って大規模な停電を知る。信号は動いていない。
一ノ関駅は封鎖され、今日、明日の電車の運行の目処が立たないことを知らされる。
バスにも長蛇の列だが、その後のバスの運行は未定だという。
その時点から携帯電話は繋がらなくなる。
朝は晴れていた空も重く曇り雪もちらつき始めた。
その夜は駅前のホテルのご好意でベッドで眠らせて頂いた。
翌朝、市の文化センターの避難所にあったテレビを見て、自分が立っているのが、地震で揺れが最も激しかったすぐ北の町だというのを知る。
だがそれよりもさらに恐ろしく甚大だった津波のニュースには目をふさいでしまった。
前日、気仙沼行きのバスを待つ長い人の列を思い出す。
そして自分が直面している事態の大きさにようやく気づき始める。
それから2日、電気も水も携帯電話の電波も復旧しなかった。長い列を作って公衆電話の受話器を取るもいくつかの通話はつながらないままだった。
そんな中でも一軒の果物屋と、一軒のスーバー、そして避難所での配給でなんとか食べるものは調達することが出来た。
こんなときに「パンがなくてお菓子を食べる」生活を強いられる羽目になったのはきっと何かの因果だろう。
震災から2日目に一軒の書店のシャッターが開いた。時間だけはあったから本でも読もうかという気にもなる。僕は一番最初のお客だったようだ。手に取った「神の子どもたちはみな踊る」は読み始めたらすぐに日が暮れた。
毎日、朝陽が昇るのが待ち遠しくて、夕陽が沈んでゆくのが心細かった。
3日目の朝「JRが緊急の東京行きの救済バスと電車を用意する」という知らせが来るまで。
朝8時、バスが出る直前に、どうしてもお礼を言いたかった方の元にまで走って行ったけれど、胸が詰まって自分の言葉がうまく出ないままだった。
その朝、避難所となっていた文化センター周辺だけにようやく電気が通ったようで、唯一その前の交差点に光の灯った信号機を久しぶりに見た。
バスは大きな川を渡って町を抜けてゆく。
僕は自分の帰るはずだった場所に帰るだけなのだけど、同じ地震で被災した者としては、その地から先に抜け出してしまうのが何か気の毒で仕方がなかった。
後ろ髪を引かれる…という表現はきっと間違っているけれど、何かそんな感じの。
本来、東北本線から新幹線に乗り換えるためだけに立ち寄るはずだった町に3泊もお世話になった。
同じ大地震で被災したはずなのに、僕らだけが被害者のような顔して、施しを受けていてたんじゃないだろうか、自分からも何かやることがあったはずなのにと。
なんでいつも僕の後悔は先に立たたないのか。
帰路は山形・酒田、新潟を経由してというもので、バスと電車でちょうど12時間の道程だった。
無事に東京に戻って驚いたのは、意外にも首都圏も大きなダメージを受けていたことであった。
月曜からは当然のよう粛々とケーザイ活動に勤しんでいるのかと思っていたから、その静かさに驚いた。自粛なのか、節約なのか、避難なのか…。
そしてコンビニエンスストアやスーパーの棚の空き具合は、正直、被災地のそれより酷かった。
実は被災した真っ暗なスーパーでは卵も牛乳も売っていたのに都心では何軒回っても卵と牛乳が買えない。
被災地では並ばなくてもトイレットペーパーも売っていた。
某都知事の耳を疑うような発言にはどうしたって賛同できないが、一点「我欲」という言葉だけは言い得ているのかも知れないという気がした。
我欲、エゴ、それは(自分も含め)避難所での生活、震災後の東京の生活、どちらにも嫌な風に顔を出しているのだが、そのどちらがより賤しいかは明白だ。
自分の我欲を洗い落としてくれるのは、外的な何かではなく、自分の内的な気づきでしかないと思うけど。
| photo: sk |
被災地には冷たい雪が降っているという。
今日、広尾では桜が咲いているのを見た。
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La Neige de Paris
http://cherchem.exblog.jp/15661332/
2010-12-25T00:26:00+09:00
2011-02-14T16:27:11+09:00
2010-12-25T00:27:17+09:00
cherchemidi
monologue
| photo: sk |
コメディ・フランセーズ前のカフェでブランコとクリスチャン、そしてワグナー家のアントワーヌ(春には一緒に直島にも行った)とノエル前にランデヴーした。朝には晴れていたのに、カフェを出ると雪がちらつき始めた。
サントノレを突き切って、来年のアジェンダを買いにエルメスへ…と思ったが、途中寄り道していたら着く頃には結構な雪が舞っていた。
ノエルの直前のパリは、みんながプレゼント選びとヴァカンス前のショッピングに慌ただしくて、普段とは違った活気にあふれていて面白い。エルメスの店内もこの時期ばかりは世界中からの観光客に負けないくらいにパリジャン、パリジェンヌであふれている(ような気がする)。
さてコンコルドからメトロに乗って帰ろうと思ってコンコルド広場に出ると、そこには雪の中で白く輝いている観覧車が回っている。夏のチュイルリー公園の観覧車は知ってるが、冬にはコンコルド広場にあったっけ? そんなことを考えて横から吹き付ける雪に体温を奪われつつも、僕の足は知らず知らずその観覧車に近づいて、次の瞬間には乗車券を買い求めていた(10ユーロ、結構するね)。
こんな雪にまみれたパリを、シャンゼリゼを、真上から眺めてみたい、そんな気持ちに抗うことは出来なかったのである。
パリの冬は暗くて寒いけれど、例年ならこんなに頻繁に雪が降ったり積もったりすることはないような気がする。なんでも先日の大雪は23年ぶりの大雪だったんだとか。
そんなパリを目の前に、僕は寒さのことも忘れて、かなり高揚しながらシャッターを切っていた。カメラにはあまり感度の高くないフィルムしか入っていなかったから、その目の下の素晴らしい景色をうまく捉えきれているとは思わないけど、その観覧車が2周する間に僕は雪に降られるチュイルリーを、シャンゼリゼを、遠くにかすむエッフェル塔を存分に満喫した。
本当ならその真っ白に覆われたチュイルリーを歩き、橋を渡って、歩いてサンジェルマンまで帰りたくなったくらいだけど、その夜はディナーの約束があったからメトロに乗った。不思議なことにSèvres-Babyloneでメトロを降りたときにはすっかり雪はやんでしまっていて、ほんの少し前のコンコルドの景色がにわかには信じられなくなったほどだ。ただ足の底から冷やしてくる、あのパリの冬の石畳の感触だけはまだ僕の足の裏にあった。
| photo: sk |
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South Ferry
http://cherchem.exblog.jp/15359393/
2010-10-27T17:18:00+09:00
2011-02-14T16:27:11+09:00
2010-10-27T17:18:47+09:00
cherchemidi
monologue
| photo: sk |
NYに行ったら「自由の女神」を観なくては…というのは半ば強迫観念のように頭にこびりついていた。
そして出来ることなら船に乗って甲板から海の向こうにマンハッタンを眺めてみたいとも思っていた。
これは僕のトラウマ・フィルムともいえるジャームッシュの『パーマネント・バケーション』のせいだ。
ご覧になった方ならご存知の通り(この後観られる方、以下、ネタ書いてます)、最後、主人公の彼はNYを去って“君のバビロン”となるだろうパリに向かうわけである。
NYに発つ数時間前、パッキングが終わってから成田に向かう前にこの『パーマネント・バケーション』のDVDを観た。果たして若き時代の僕はこの言葉の影響でパリにバビロンを求めてしまったのだろうか?
ともかく僕が短いNY滞在でようやくマンハッタンの南の端の港(確かあの主人公はブルックリンの港からNYを去るのだが…)にまでたどり着けたのは最終日の午後だった。
その日PHOENIXのサウンドチェックの直前で、船に乗る時間も、ゆっくり自由の女神を拝む時間もなかったので、対岸から写真を数枚撮っただけであった。
そもそも自由の女神像が、島にあるなんていうのはほんの少し前にガイドブックを読んで知ったばかりだった。
そういえばパリの自由の女神もセーヌの浮き島に立っているな…。
今やNYを最も象徴するような女神像だが、フランスかぶれのみなさんならご存知の通り、あれはフランスが独立100周年の記念に贈ったもので、モデルはフランスを象徴する女神マリアンヌである。
皮肉な親仏家のクリシェとしては「アメリカには自由はない。アメリカの自由なんてフランスが贈ったものだ」なんてのもある。
そのクリシェはさておいたとしても、9.11以降のアメリカを見ているとその「リバティ」という言葉に厚みが感じられない気がしている。
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je m'appelle patrick, mais on dit bob
http://cherchem.exblog.jp/14895359/
2010-08-04T22:15:00+09:00
2011-02-14T16:27:28+09:00
2010-08-04T22:15:40+09:00
cherchemidi
monologue
| photo: sk |
ちょうど一年前、39歳を迎えた僕をずっしり重い気持ちにさせたのは、決して30代最後とかのセンチメンタルな問題じゃなかった。
かねてより心の拠り所である導師、ボリス・ヴィアンの享年は39歳であって、自分がその歳を迎える自信がないことへの不安だった。
僕のことを若い頃からフォローしていると嘯く(かつての)若者に去年の誕生日の後に指摘された。
「梶野さんは、むかしからよく『39歳で死ぬ』と言ってましたよ」と。
はは…、そのくらいの覚悟で生き急いでたのだろうか…、こう書いてるだけでも恥ずかしくなるよ。
たくさんの肩書きや形容詞やらがないと説明できないような僕のパーソナリティとアイデンティティは、今に始まったことではないし、果たしてその影響だったのかどうかも定かではないけど、その文章においても、その存在感においてもヴィアンの存在の大きさは計り知れないのである。
「うたかたの日々」はそのまま僕の人生の消えてしまいそうな日々のようであり、最も好きな小説である「北京の秋」を読み返しては、いかに「まっすぐでない」ことこそ大切かを思い返す。
そして僕がサンジェルマン・デプレを徘徊するのは、フェニックスより以前に、ゲンスブールより以前にヴィアンのせいだ(結局その地下に見つけたのはタブーじゃなくてモンタナ)。
まもなく40代を迎え、歳を重ねるのはむしろ楽しみなのだけれど、どうしても悔やまれるのは、今の中途半端なままの自分で、そのヴィアンの享年を越えてしまうことだ。
いまクリアしてるとしたら「je m'appelle shoichi, mais on dit coco」ってことくらいだ。
ああ、だってこの先、「その次となると62歳まで猶予があるな…」、なんてますます自分を甘やかしてしまうだけじゃないか。
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l'été de Paris, de 1990 à 2010
http://cherchem.exblog.jp/14768815/
2010-07-14T06:59:21+09:00
2011-02-14T16:27:46+09:00
2010-07-14T03:32:55+09:00
cherchemidi
monologue
1990年、夏のパリ。
この季節のパリに特別な想いがあるのは、他でもなくはじめてこの街を訪れたのがこの季節であったからに違いない。
今よりひとまわり大きかったサイズの、僕にとっての初めてのパスポートを見直して発覚したのだけど、正確に僕が初めてこのパリの地を踏んだのは19歳最後の瞬間、1990年の7月だった。さらには20歳の誕生日であった8月のその日に、パリを発ってカレイの港からドーバー海峡を渡ってロンドンへと向かっていることが判明した。果たしてそれがどのくらいまで計画的であったかどうか今となっては思い出せないのだけど、僕はパリとロンドンを結ぶドーバーの船の上で寝ぼけ眼のまま20代最初のバースデイを迎えたというわけである。
さて、その初めてのパリでいまだ印象深かく記憶に残っているシーンがいくつかある。まずはシャルル・ドゴール空港に降り立ったときの眩しく強い夏の夕暮れの光。そしてルーヴルの前に立ち、チュイルリー公園、コンコルドから凱旋門までまっすぐ一直線にのびたシャンゼリゼを見た時の感動。そそれから、グランパレの脇を歩いてたどり着いたアレクサンドルIII世橋やセーヌ川は今よりずいぶん大きく見えたように覚えている。
実はその旅は、当時の憧れの地であったロンドンへの旅のついでに、せっかくならパリにも立ち寄ってみては…と、誘ってくれた大学の仏文科の友人の計画によるものだったのだが、僕は初めて踏んだ異国の地となったこの美しいパリで、まんまとその虜になってしまったという訳である。そんなわけだから、この旅に僕を連れ出してくれたその友人には今でも強く感謝している。
もちろん当時、ゴダールやらカラックスによって予備知識としてのパリへのあこがれはすでに植え付けられた後ではあったものの、果たしてそんな「あいまいなあこがれ」だけでパリを訪れた当時の僕に対して、「本物の」パリはあまりにも美しくあまりにも甘美であった。
20年前、当時の僕には、その後に自分がこの街で仕事をするようになるとも、この街に(東京より)たくさんの友人が出来るとも想像もできなかっただろう。もちろん。
パリは得てして他所からの訪問者には冷たいけれど、その愛が届けば、時に偶然とは思えないような奇跡を見せてくれることだってある。
やわらかくつながってきたたくさんの人々との出会いや、この街がときどき見せてくれた数々の奇跡に感謝しながら、そんな想いで、2010年、僕はこの街の夏を歩いている。
le 14 juillet 2010 ]]>
Mon 20ème été à Paris.
http://cherchem.exblog.jp/14711753/
2010-07-04T19:08:00+09:00
2011-02-14T16:27:46+09:00
2010-07-04T19:08:11+09:00
cherchemidi
monologue
僕にとっての20年目となるパリの夏。毎日が暑い。
19歳の時に初めて訪れたこの街は、20年経ったいまでも僕を魅了してやまないでいる。
多くのものが変わってしまったようにも感じるし、多くのものが何も変わらないままでそこにあるような気もする。この街にあふれる魅力は何度訪れても何も変わらないし、僕はいまだセーヌを渡るたびに得も言われぬ高揚感に襲われる。
よく「これまでいったい何度パリに行ったの(来たの)?」といったことを聞かれるのだけど、正直なところこれまでのパスポートを見ても数えらきれないし分からない。(なんといっても最近までフランスの税関って入国/出国のスタンプ押してくれなかったからね…)
なにより、そんな大切な今年の夏は、長い時間をこの街で過ごせる機会があってとてもうれしく思う。
| photo: sk |
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le petite livre rouge
http://cherchem.exblog.jp/14332497/
2010-05-08T02:05:00+09:00
2011-02-14T16:27:46+09:00
2010-05-08T00:14:08+09:00
cherchemidi
monologue
——上海と小さな赤い本をめぐる回想
今回の旅で、特に「MADE IN CHINA」の何かを買って帰りたいという欲求はなかったのだけど、どうしても手に入れたかったのはあの「小さな赤い本」=毛主席語録である。
何を隠そう中華人民共和国の赤い旗の下、僕の頭でリピートしていたのはClaude Channesの歌う「Mao Mao」。他でもないゴダールの「LA CHINOISE(中国女)」のタイトルトラックだ。
なかでも少女のか細い声で歌われる
C'est le petite livre rouge
Qui fait que tout enfin bouge
(いよいよ全てを動かし始めたのは その小さな赤い本であった)
というくだりが頭にこびりついている。
(YouTube)
好きなのはなにもその歌だけではなく、ゴダールの「赤」にこだわった「中国女」全てを、ほとんど盲目的に好きなのだ。
もちろん、その映画を初めて観たときから、一度だってちゃんと毛沢東語録を読んだことはなかったし、さらに67年に公開されたその「赤」の映画が、果たしてどれほど68年の5月のパリを予見していたのか?それさえ未だ分からないままなのであるが。
どこに行けばその赤い本は見つかるんだろうと、旅の間、漠然と思っていたのだけど、最終日の午前中にLV社御一行様(なんともその中心はヴィトン家5代目、パトリック・ルイ・ヴィトン氏であった!)に同行して連れて行ってもらった骨董街のあちらこちらでその赤い本を見つけることが出来たのだ。中国語やロシア語だけでなく、英語から日本語まで世界各国の言葉のエディションがある。
本来ならまとめて50冊でも100冊でも、トランクに入りきるだけの「赤い小さな本(フランス語版)」を買って、我がアトリエの白い本棚をその小さな赤い本で満たしたかったのだけれど、そもそもフランス語版を見つけるのは、容易くはなく、結局1冊だけをトランクに入れて持ち帰ることにした。
小さいながらも偉大な毛沢東思想の詰まったその赤い本を、フランス経由、あるいはヌーヴェル・ヴァーグ経由で「赤」という色だけに変換してしまうのは、本来のこの本の使用目的ではないにせよ、僕の回路では至極当然であった。
そもそもなぜ共産主義や社会主義は「赤」で象徴されるのか、それもググってwikiって調べたら、なんともその起源はフランス革命に端を発していたという事実も知ることが出来た。
ある午後、次の予定まで2時間ぽっかり時間が出来たからと、地図も持たないままの散策でさまよった挙げ句、最後に到達してしまったのは「中国労働組合書記部旧址陳列館」。もちろんその天には翻る赤い旗があったときには何らかの必然を感じてしまった。
2010年、いまやこの「小さな赤い本」で再び世界は逆さに動きだす…とは思えないのだけれど、1968年のフランス経由でずいぶん左に偏った中国観をもった僕の本棚にはなかなかしっくり収まった。
| photo: sk |
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Shanghai Rhapsody
http://cherchem.exblog.jp/14326125/
2010-05-07T03:07:00+09:00
2011-02-14T16:27:46+09:00
2010-05-07T03:07:10+09:00
cherchemidi
monologue
上海。
万博開幕直前に沸くその街にLouis Vuittonの大型店が2店舗同時にオープン、さらには万博会場のフランス館でもLouis Vuittonによるプレゼンテーションが大々的に行われるということで、HF氏、鈴木編集長とともに記録係としてご招待頂いた(その記事は近々ハニカムで)。
当然ながら、僕にとって中国本土の地を踏むのは初めてである。
その最初の機会が万博開幕直前の上海、それもフランスのブランドからのご招待というのは、とても幸運である(なにしろあの広い万博会場で、唯一我がフランス館にだけ行けばよいというのであるから)。
Grand Merci pour LV!!!
到着直後の万博会場のプレス・ツアーからはじまって、思った以上に多くのイベントが詰まっており、有り難いことにトランスポートまで全て手配してくれていた。
そんなわけで実際に町を歩いて見る時間は限られていたのだけれど、上海で最も高いビルの高層階にあるリュックスなホテルを用意して頂いていたおかげで、毎朝、早朝になると遮るもののない角度で朝日が差し込んで否応なく目を覚まさせてくれる。
6時に起床、集合時間までのたっぷり朝の時間を、カメラを片手に散策に充てることが出来た。
とりあえずはホテルの部屋からだとガスに霞んで見える下界へ降りて、アリンコのような歩幅で地下鉄の駅らしき方向を目指し、なんとか切符を買いながら地下鉄に乗りこみ、いくつか先の駅で当てずっぽうに降りてみる。「人民広場」、いかにも町の中心のような駅名じゃないか。
町に出てとにかく感じたのは埃っぽい空気だ。
スモッグのようなガスなのか、至る所で行われている工事でまき散らされる埃なのか、はたまた黄砂なのか、とにかく埃っぽい。
地上87階のホテルのラウンジからは、晴れた日でさえ下の方がぼんやり霧がかかったように見える。
それから「人が多い」という月並みな印象は、東京から来た者にとっては正直それほどの驚きではなかったけれど、その人がなんだかパワフルである。話し声の大きさや身振り手振り、信号は守らないで突進して来るわ、列を作れないで突進して来るわ、一人一人というよりも、団体としての「民力」のようなものがすごくてそのパワーに圧倒されそうになる。
まだまだ市民が「シビライズド」されていないというのは、なんとも上からの目線の感想ではあるけれど、数日過ごしているだけで、やっぱりそう感じないではいられない場面に何度も遭遇する。
ただしその違いこそ、僕が今回の上海を楽しく見れた一番のポイントである。
誰が決めることか知らないけれど「インターナショナル・スタンダード」というものがあって、それに照準を合わせてグローバルに「シビライズド」されてしまった中国の市民の歩く町を見ても、きっと何も面白くないだろう。
とはいえ、今の上海は全くの世界と肩を並べる資本主義都市である。
ものごとは全てお金で動いていて、実際(本物の)Louis Vuittonのバッグも本物の値段でバンバン売れている。
この世界の状況にあっては、逆にその消費の勢いの方が不自然な感覚さえ覚える。(一方で僕が上海で使ったお金は1万円以下であった)
マクドナルドのハンバーガーの味を教えられ、スターバックスをショートだのトールだの注文している。PAULのサンドイッチも買える。
H&MもZARAもユニクロも軒を揃えてMADE IN どこかの洋服を売っている。やっぱり世界は強引にもフラットに押し広げられている。
現代の中華人民共和国の共産主義って何なんだ? 国家が統制する資本主義って何なんだ? そういうことが頭の片隅で気になりながら、赤い旗の下で何日かを過ごした。
そんなフラットな町の様子の反面、噂には聞いていたが、実際に中国では「Facebook」にも「Twitter」にもアクセスできなかった。さらにあろうことか、僕のこのblogにもアクセスが出来なかったのである(もちろんずいぶん偏ったレイシスト的思想と趣味で綴られたログだから仕方ないのだが…)。
おかげで、というわけではないけれど、ずいぶん「オフ」の状態に慣れて、あるいは「オン」に戻るきっかけさえ失ってしまいそうになっていた。
blogもしばらく書かないと、なかなか書きだすきっかけが持てないし、Twitterも何をどうコミュニケートしていいもんだっけと、口を閉ざしたままになってしまったわけだ。
(というわけで少々のエクスキューズとともに、上海の日々…つづく)
(おやつ)
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n'importe quoi
http://cherchem.exblog.jp/13508716/
2010-01-17T17:42:00+09:00
2010-01-21T15:56:17+09:00
2010-01-17T17:42:28+09:00
cherchemidi
monologue
ジェーン・バーキンの「Quoi」という曲を初めて耳にしたのは、80年代、当時のテレヴィのコマーシャルだったという記憶がある。
以前にYouTubeで検索した際には残念ながらそのコマーシャルを見つけられることは出来なかったんだけれど(今見たらここにあった*)、確か日曜の夜8時に久米宏さんが司会をしていた番組の提供の信販会社だったかのコマーシャル・フィルムで、(ちょっと不気味な)マリオネットが映る画面とともに流れるその曲を耳にしてえも言われぬアンニュイな気持ちが幼少の僕に刷り込まれたことを思い出す。
恐ろしいのは今でもその「Quoi」を聴くとその映像が浮かぶことである。
たとえパリにいてその曲がラジオから流れてきても、いや、本人がコンサートで生でその歌を歌っているときにさえである。
パリに向かう機上、iPodから流れてきた「Quoi」を聴いていて、昨年の来日公演で彼女がステージの階段を下りてきて観客の間をぬうように歩きながら歌う姿を思い出した。
その曲は「Yesterday Yes A Day」だったけれど。
そんな演出は東京での二夜ともに同じだったにもかかわらず(そして二夜とも同じ席に座っていたにもかかわらず)、どうしても自分のすぐ目の前にまで来て歌う彼女を目にあふれる涙を押さえきれなくなってしまった。
たしか先週、日曜の夕方、表参道。日本在住のビルマの方々がアンサンスーチーさんのパネルとともに母国の酷い状況をアピールする行進に出くわした。それを見ても何も出来ない不甲斐ない自分を再認識させられながら、またジェーン・バーキンのことを思い出したという次第。
先週火曜日の朝、Le Mondeからの自動配信される速報で知ったのは「映画監督のエリック・ロメール氏死去」のニュースだった。
昨年日本で公開された『我が至上の愛〜アストレとセラドン〜』(Amazon)は、彼の「これを最後に私は映画を撮ることを止めようと思う」という言葉通り本当に最後の作品になってしまったわけだ。
(引退してすぐに亡くなってしまった、ということの次第はすぐにサルヴァドールじいさんのことを思い出させた)
ロメールのこの言葉を知ったのは、昨年の春、土曜の朝に突然電話を頂いて、「今から、うちに遊びにおいで。ご飯を作るから」と誘ってくれたフランスかぶれの大先輩、浜田比左志さんによってである。
浜田さんはその映画を観ながら泣いてしまうほど感動したというから、そんな話を聞いてさっそくその上映が終わってしまう直前の平日の朝に銀座にまでそれを観に行ったのである。
僕にとってスクリーンで観たその遺作は、泣くどころか明らかにおかしな設定のおかげでむしろ笑いそうになってしまう映画だったし、スクリーンの前でうとうとしてしまったのも事実だ。
誤解を与えないように書いておくと、ロメールの『クレールの膝』『緑の光線』は今でも好きな映画の「ベスト50」を挙げるならに必ず入るであろう大好きな監督だ。
本当にそれが遺作になってしまった今となっては、映画館でそんなロメール監督の遺作を観ることが出来たのはよかったと思うのだけれど、その訃報にまた哀しくなってしまった。
ロメールの映画といえば、あの不思議な“間”とともに音楽もなく、ずっとしゃぺりっぱなしの映画、という印象が強くて、若き日々、レンタル店で借りてきたロメール作品のヴィデオの前でうとうとすることもしばしばであったが、『満月の夜』は、また別の意味で印象的な作品だ。
パリ郊外の不毛を描いたような佳作で、主演のパスカル・オジェをはじめズバリ80sなファッションや風俗も見どころだし、サウンドトラックがJACNOが手がけているのもすぐに思い出す点だ。
そう、話はにわかにスライドするが、去年の最も大きな訃報はJACNOのそれであった。
それは、彼が実際に会ったことのあるスター、という意味で、だけではない。
僕の個人的な音楽的嗜好・音楽的遍歴の場合で断言するなら、マイケル・ジャクソンの不在よりも、JACNOの不在の方がその後の音楽史に大きな影響がでるほどに意味のある存在だったかもしれない。
JACNOこそ、フレンチ・エレクトロの最もの「祖」なのである、と言ってフランスでは誰からも異論はないし、彼なくしてはDAFT PUNKはもちろん、ジャン・ミシェル・ジャールからMr. Oizoまで、フランスのエレクトロニック・ミュージック史はあり得ないほどだ。
フレンチ・ニューウェイヴ期のStinky Toysから、ソロ、Elli et Jacno期、LIOのプロデュース…と語るべきことは山ほどありそうだけれど、うまく言葉にできないから昨年後半はLe Baronでの選曲にこのJACNOからみの音をいっぱいかけておいた。
そんなエレクトロ・ミュージックの偉人の訃報は日本では一切目にしなかった(一昨年の同じ時期、Les Rita Mitsukoのフレッド・シシャンが亡くなった際もそうだった…)。自分の偏愛するフランス音楽の日本でのポピュラリティを考えれば仕方ないか。
どちらにせよ、もう十年以上も前になるある夜のJACNO氏からのレアールのブラッスリーへの突然の呼び出しは、まるで現実味のない現実として僕の思い出の中にしまい込まれてしまった。あのとき思いを強くしたJACNOの初期作品の全作品の完全リイシューへの夢は、権利元のクリア以前に、音楽商業を巡る昨今の状況では永遠に実現しなそうである。
今やその魂よ安らかに、と願うばかり。そしてそのエスプリがこれからもフランスの音楽界で永遠に受け継がれていってほしい、と願うばかりである。
あまりに訃報ばかり伝えているもんだから、なんだかこの僕のブログはずいぶんと「死の匂い」が漂ってきてるような気さえする。
もう本当に好きなアーティストたちってみんな死んでいくんだ。
ヴェルヌイユ通りのゲンスブールの壁を見るまでもなく、時代はどんどん「c'etait mieux avant (it was better before)」と言わざるを得ないし、ときどき僕は時代を間違って生まれてきてしまったんじゃないかと後悔することだってあるくらいだ。
この長らくの「国籍同一性障害」は別として、こんなうすっぺらい時代になってしまっては、「生きる時代同一性障害」さえ引き起こしそうなんだよ。
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à Notre Monsieur au Café
http://cherchem.exblog.jp/12559383/
2009-10-08T02:51:00+09:00
2009-10-08T12:43:57+09:00
2009-10-08T02:49:47+09:00
cherchemidi
monologue
「Our Man in Café」、そう書くと少々親しすぎるようだからフランス語に訳して「Notre Monsieur au Café」としてみる。
敬愛する編集人、岡本仁さんが晴れて自由人となった。
いやいや、傍目にはもともと「(ボーン・トゥ・ビー)自由人」なお方なのだけれど、このたび会社員ではなくなったというお知らせをあらためて受け取って、なんだか嬉しいような、悲しいような気持ちになったのである。
素直に「おつかれさまでした」「ありがとうございました」と書きたいところだけれど、希望も含めて過去形の言葉は避けたいのだ。
岡本氏について、いまさら改めて何を書く必要もない気もするが、僕がまだ学生だった頃からその存在感は大きく、「Gulliver」、「BRUTUS」、「relax」、「ku:nel」 と氏が関わった雑誌では直接的、間接的に大いにお世話になった。学生時代には「Gulliver」のロンドン特集、パリ特集のページを切り取って旅をしたこともあるし、何を隠そう、僕を初めてジャーナリストとして(いや「フランスかぶれ」として)担当編集の同行もなく、ひとりでパリ取材に放り出してくれたのも「relax」編集長期の氏であった。
その後、ジェーン・バーキンにはじめて取材する機会を与えてくれたのも、また編集長であった。
かつて僕が所属していた「ゲンスブール委員会」に対抗して「サルヴァドール委員会」なるものまで立ち上げたのだけれど、結局、南仏でのサルヴァドール邸訪問取材の権利を僕に譲ってくれたのも、他でもない氏であるし、以前に書いた通り、ギィ・ペラート氏を紹介してくれたのも氏である。
亡くなった人の話ばかり続いて縁起が悪いが、かつて「VISAGE」という伝説の雑誌でジャック・タチの魅力を教えてくれたのも間違いなく氏(これはマガジンハウス刊ではなく小野郁夫の名前で編集長をつとめていたのだが)である。
それより何より、これはまだ最近の話、僕がはじめて「blog」という媒体を知った(悪くない媒体と知った)のも氏のかつての「fablog!」によってだったのだ。
(現在の「triple mo' fablog」はこちら)
カフェよりも前から喫茶を愛し、代官山と鎌倉と銀座を闊歩し、永遠の趣味人である「ぼくらの伯父さん」といっても、僕の周りに反論する人はひとりもいないだろう(ご本人以外は)。
自由な時間が出来たからと、「久しぶりにお会いしたく(実のところ、サルヴァドール氏追悼ディナー以来お目にかかっていないのである)…」とランデヴーを申し込むも、タイ〜鹿児島〜東京〜アメリカ西海岸と旅が続いている様子、さらに僕も東京〜福岡〜長崎〜軽井沢〜フランスと浮遊していてなかなかスケジュールがあわず来月までおあずけになった。
こうやって頂いたはがきを公にするのも失礼かとも思ったけれど、そこに記された言葉に僕も強く共鳴しましたので、どうぞお許し下さい。
Move around. Go travelling....
スーザン・ソンタグのその言葉は今年最初の「Our Man」からのメッセージでもあった(#)。
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à la fin de l'éte
http://cherchem.exblog.jp/12245143/
2009-09-02T14:39:00+09:00
2009-09-02T20:37:56+09:00
2009-09-02T14:39:56+09:00
cherchemidi
monologue
季節に明確な節目はつけにくいものだけれど、今年の僕の場合、9月1日は「夏の終わり」であったような…。
その暑さは台風一過のせいのようだったけれど、朝からの「今日は最後の夏の日ですよ」というような空気に負けて、ランチの前にすでに生ビールを2杯頂いた。
この夏の間、1ヶ月半ヴァカンスで東京に滞在していたムッシュ・デルベスと最後のビールを飲む。
彼は代官山に滞在していたから、駅前の(冴えない)カフェのテラスがいつもの待ち合わせ場所である。テラスは禁煙、店内は喫煙という奇妙なシステムには、フランス人じゃなくても違和感を覚えるはず。そのテラスでNMEなんかを読んでる男が、ムッシュ・デルベスだ。
「この辺ってモントルグイユ通りみたいだ」という彼の言葉に大きく賛同。「じゃあここはさしづめカフェ・エティエンヌ・マルセルといった感じだろう」とか。
蝉が飛んできて、すぐ脇の柱に止まった。エティエンヌ・マルセルには蝉はいない。パリには蝉がいない。南仏にはたくさんいるのだけれど、どれも小さい種類のものばかりなので、日本の大きな蝉を見るとフランス人は一様に驚く。
彼だけではない。東京にいたフランス人たちはみんないなくなってしまった。
ちょうど先週末は、6年間を東京で過ごしていたアーティスト、シリル・デュバル (Item Idem) くんが東京のアパートを引き払うというので、週末にさよならフェットがあった。実際のところ、彼はすでにこの半年間は東京に住んでいなかった。ある日はパリ、ある日はベルリン、ある日はモスクワ、ある日はNY、6月にはフィレンツェのPITTIではコレット・チームに同行中の彼に遭遇した。そんな具合のノマドなのである。富ヶ谷のビルの最上階、メゾネットになったペントハウスのようなその屋上テラスで夜風に当たったとき、すでにその風には秋が入り込んでいたのを覚えている。
同じく週末、是枝監督の『歩いても 歩いても』をDVDで観た。
これは去年だったかヨーロッパに向かう飛行機の中で観始めたものの、なぜだか途中で止めてしまった記憶があった(こういった日本映画はむしろヨーロッパから日本に戻ってくる帰国便で観た方がしっくりきたりするもんだ)。
その映画にはとても「日本の夏」な印象があったから、再度観直したくなったのである。面白いことにその機内で“途中で止めた”というのは、僕の思い違いではなかったのかというほど、ほとんど9割、最後まで観ていたのだ。ああ、これも夏の終わり。
代官山でビールを飲んでいい気持ちになって、アトリエに戻ろうとしていたのだけれど、今日は「映画の日(鑑賞料1000円)」だと気がついて渋谷で映画でも観ようと思いついた。思いついたのはいいけれど、見たい映画が全くない。渋谷>『HACHI』!というストレートな連想もあったが、ひとりでは笑えなさそう(泣いてしまいそう)だからパス。
それで思い出したのが『色即ぜねれいしょん』だったのは自分でも意外すぎる。
とはいえ「みうらじゅんさん」原作というのが頭の隅っこにあって、6月には試写会に足を運ぶも満員で観られないという経緯があったから、この奇妙なタイトルがずっとこびりついていたようだ。
まったく青春ノイローゼな具合のこの映画を、どうして、ひとり、この夏の太陽の下に観たのかは分からないが、後で試写状のキャッチをみてハッとした。はは、ずっと「くすぶっている」僕のような人間にはお似合いだったのかもしれない。劇場を出るとそこはもう陽が沈んだ渋谷・道玄坂の雑踏で、僕はまたすぐに冷たいビールが飲みたくなった。
そんなわけで今年も「夏の終わり」が終わって、子供たちは学校に戻っていく。
朝、成田からパリに発つ直前に生ビールを飲んでいるというムッシュ・デルベスから電話を受ける。
僕は水出しの麦茶を飲んでいる。僕の東京の毎日はさして変わらない。
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un dimanche, un arc-en-ciel
http://cherchem.exblog.jp/11974892/
2009-07-19T23:54:00+09:00
2009-07-20T01:33:26+09:00
2009-07-19T23:55:00+09:00
cherchemidi
monologue
| photo: sk |
東京、日曜日、夕暮れ時の大きな虹。
よく見ると二重に。
赤から紫まできれいにグラデーションした、巨大なアーチ。
それぞれ写真をクリックして大きな画像で入り組んだ光を見てみてください。
| photo: sk |
太陽の沈んでいく西の空もいつも以上にドラマティックで、なにか不思議な日曜日は暮れていった。
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La Chapelle Matisse
http://cherchem.exblog.jp/9345827/
2008-08-01T14:14:00+09:00
2008-08-01T16:51:32+09:00
2008-08-01T14:15:01+09:00
cherchemidi
monologue
| La Chapelle du Rosaire par Henri Matisse, Vence | photo: sk |
2007年の夏の回想。
地中海か大西洋か、迷った挙げ句に結局南に向かった最大の理由は、この村をふたたび訪れたかったからだ。昔のパスポートを引っぱり出してみないと正確なことは分からないけれど、おそらく15年ほど前の夏、ニースからバスに乗って訪ねた村、ヴァンス。
見るべきところは、「マティスのロザリオ教会」ただひとつと言ってしまってもよい。
アンリ・マティスが晩年、この村に移り完成させた教会である。
今回もニースからのバスで日帰りの旅を計画する。
1時間と少しで地中海を見下ろす山間の村、ヴァンスに着くのは覚えていたのだが、きれいにアスファルト舗装された小さなバスターミナルで運転手に「終点です」と言われ、「え、ここがヴァンスですか?」と確認してしまった。
大きなスーパーやマンションのような建物の前を抜け、不安に思いながらも2分も歩くと、記憶の片隅にこびりついた見覚えのある景色に再会する。村はすっかり町に変わってしまっていたのだ。もちろん昔ながらの可愛らしい小さな村の部分は残ってはいながらも、かつての「プティ・ヴィラージュ」な面影を思い描いていただけに、その変貌ぶりには少なからずショックを受けてしまった。
それでも中心から15分ほど歩いた山の中に立つそのチャペルは、記憶の片隅の印象とまったく変わらないままで地中海を見下ろしていた。
まっしろな階段を下りてまっしろな礼拝堂へ。
壁面全体には黄色と緑と青のステンドグラス、そして真っ白なタイルに描かれたマティス流の宗教画、天高く真っ白なその空間は、南の光によって最大限にその魅力を完成させている。
しばらくは動けなくなるくらいに感激してしまった。
残念ながらチャペルの中は撮影禁止。お土産としてそのチャペル内の様子を撮ったスライドのカラーポジが売られていて、それは15年前に買ったものと同じだった。
さらに今回撮った下の写真は15年前に撮った写真と同じ構図だった。
地中海に面したコートダジュールにはアーティストが手がけた多くの礼拝堂が点在する。ニースとモナコの間にある港町、ヴィルフランシュ・シュル・メールのコクトーの礼拝堂も圧巻だったのを覚えているのだけれど、マティスのロザリオ教会の光の演出を目にしてしまうと、同じレベルでは到底比較できないほどである。
礼拝堂を後にするとき、人生が終わるまでに僕はあと何度ここを訪ねることが出来るのだろうという思いがよぎってしまい、僕は何度となく後ろを振り返りながらそのゆるやかな山道を下った。
(また思い出したら、つづく)
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