カテゴリ:monologue( 49 )
n'importe quoi
ながらくの忙殺スケジュールとTwitterのつぶやきで、blogを更新できなていなかったけれど、パリに向かう飛行機でいろいろ考えたこと。ヴェルヌイユ通りとバック通りの角からアップしておきます。

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ジェーン・バーキンの「Quoi」という曲を初めて耳にしたのは、80年代、当時のテレヴィのコマーシャルだったという記憶がある。
以前にYouTubeで検索した際には残念ながらそのコマーシャルを見つけられることは出来なかったんだけれど(今見たらここにあった)、確か日曜の夜8時に久米宏さんが司会をしていた番組の提供の信販会社だったかのコマーシャル・フィルムで、(ちょっと不気味な)マリオネットが映る画面とともに流れるその曲を耳にしてえも言われぬアンニュイな気持ちが幼少の僕に刷り込まれたことを思い出す。
恐ろしいのは今でもその「Quoi」を聴くとその映像が浮かぶことである。
たとえパリにいてその曲がラジオから流れてきても、いや、本人がコンサートで生でその歌を歌っているときにさえである。

パリに向かう機上、iPodから流れてきた「Quoi」を聴いていて、昨年の来日公演で彼女がステージの階段を下りてきて観客の間をぬうように歩きながら歌う姿を思い出した。
その曲は「Yesterday Yes A Day」だったけれど。
そんな演出は東京での二夜ともに同じだったにもかかわらず(そして二夜とも同じ席に座っていたにもかかわらず)、どうしても自分のすぐ目の前にまで来て歌う彼女を目にあふれる涙を押さえきれなくなってしまった。

たしか先週、日曜の夕方、表参道。日本在住のビルマの方々がアンサンスーチーさんのパネルとともに母国の酷い状況をアピールする行進に出くわした。それを見ても何も出来ない不甲斐ない自分を再認識させられながら、またジェーン・バーキンのことを思い出したという次第。








先週火曜日の朝、Le Mondeからの自動配信される速報で知ったのは「映画監督のエリック・ロメール氏死去」のニュースだった。
昨年日本で公開された『我が至上の愛〜アストレとセラドン〜』(Amazon)は、彼の「これを最後に私は映画を撮ることを止めようと思う」という言葉通り本当に最後の作品になってしまったわけだ。
(引退してすぐに亡くなってしまった、ということの次第はすぐにサルヴァドールじいさんのことを思い出させた)

ロメールのこの言葉を知ったのは、昨年の春、土曜の朝に突然電話を頂いて、「今から、うちに遊びにおいで。ご飯を作るから」と誘ってくれたフランスかぶれの大先輩、浜田比左志さんによってである。
浜田さんはその映画を観ながら泣いてしまうほど感動したというから、そんな話を聞いてさっそくその上映が終わってしまう直前の平日の朝に銀座にまでそれを観に行ったのである。
僕にとってスクリーンで観たその遺作は、泣くどころか明らかにおかしな設定のおかげでむしろ笑いそうになってしまう映画だったし、スクリーンの前でうとうとしてしまったのも事実だ。
誤解を与えないように書いておくと、ロメールの『クレールの膝』『緑の光線』は今でも好きな映画の「ベスト50」を挙げるならに必ず入るであろう大好きな監督だ。
本当にそれが遺作になってしまった今となっては、映画館でそんなロメール監督の遺作を観ることが出来たのはよかったと思うのだけれど、その訃報にまた哀しくなってしまった。


ロメールの映画といえば、あの不思議な“間”とともに音楽もなく、ずっとしゃぺりっぱなしの映画、という印象が強くて、若き日々、レンタル店で借りてきたロメール作品のヴィデオの前でうとうとすることもしばしばであったが、『満月の夜』は、また別の意味で印象的な作品だ。


パリ郊外の不毛を描いたような佳作で、主演のパスカル・オジェをはじめズバリ80sなファッションや風俗も見どころだし、サウンドトラックがJACNOが手がけているのもすぐに思い出す点だ。



そう、話はにわかにスライドするが、去年の最も大きな訃報はJACNOのそれであった。
それは、彼が実際に会ったことのあるスター、という意味で、だけではない。
僕の個人的な音楽的嗜好・音楽的遍歴の場合で断言するなら、マイケル・ジャクソンの不在よりも、JACNOの不在の方がその後の音楽史に大きな影響がでるほどに意味のある存在だったかもしれない。
JACNOこそ、フレンチ・エレクトロの最もの「祖」なのである、と言ってフランスでは誰からも異論はないし、彼なくしてはDAFT PUNKはもちろん、ジャン・ミシェル・ジャールからMr. Oizoまで、フランスのエレクトロニック・ミュージック史はあり得ないほどだ。

フレンチ・ニューウェイヴ期のStinky Toysから、ソロ、Elli et Jacno期、LIOのプロデュース…と語るべきことは山ほどありそうだけれど、うまく言葉にできないから昨年後半はLe Baronでの選曲にこのJACNOからみの音をいっぱいかけておいた。

そんなエレクトロ・ミュージックの偉人の訃報は日本では一切目にしなかった(一昨年の同じ時期、Les Rita Mitsukoのフレッド・シシャンが亡くなった際もそうだった…)。自分の偏愛するフランス音楽の日本でのポピュラリティを考えれば仕方ないか。

どちらにせよ、もう十年以上も前になるある夜のJACNO氏からのレアールのブラッスリーへの突然の呼び出しは、まるで現実味のない現実として僕の思い出の中にしまい込まれてしまった。あのとき思いを強くしたJACNOの初期作品の全作品の完全リイシューへの夢は、権利元のクリア以前に、音楽商業を巡る昨今の状況では永遠に実現しなそうである。

今やその魂よ安らかに、と願うばかり。そしてそのエスプリがこれからもフランスの音楽界で永遠に受け継がれていってほしい、と願うばかりである。


あまりに訃報ばかり伝えているもんだから、なんだかこの僕のブログはずいぶんと「死の匂い」が漂ってきてるような気さえする。


もう本当に好きなアーティストたちってみんな死んでいくんだ。
ヴェルヌイユ通りのゲンスブールの壁を見るまでもなく、時代はどんどん「c'etait mieux avant (it was better before)」と言わざるを得ないし、ときどき僕は時代を間違って生まれてきてしまったんじゃないかと後悔することだってあるくらいだ。

この長らくの「国籍同一性障害」は別として、こんなうすっぺらい時代になってしまっては、「生きる時代同一性障害」さえ引き起こしそうなんだよ。
by cherchemidi | 2010-01-17 17:42 | monologue
à Notre Monsieur au Café

「Our Man in Café」、そう書くと少々親しすぎるようだからフランス語に訳して「Notre Monsieur au Café」としてみる。

敬愛する編集人、岡本仁さんが晴れて自由人となった。
いやいや、傍目にはもともと「(ボーン・トゥ・ビー)自由人」なお方なのだけれど、このたび会社員ではなくなったというお知らせをあらためて受け取って、なんだか嬉しいような、悲しいような気持ちになったのである。
素直に「おつかれさまでした」「ありがとうございました」と書きたいところだけれど、希望も含めて過去形の言葉は避けたいのだ。

岡本氏について、いまさら改めて何を書く必要もない気もするが、僕がまだ学生だった頃からその存在感は大きく、「Gulliver」、「BRUTUS」、「relax」、「ku:nel」 と氏が関わった雑誌では直接的、間接的に大いにお世話になった。学生時代には「Gulliver」のロンドン特集、パリ特集のページを切り取って旅をしたこともあるし、何を隠そう、僕を初めてジャーナリストとして(いや「フランスかぶれ」として)担当編集の同行もなく、ひとりでパリ取材に放り出してくれたのも「relax」編集長期の氏であった。
その後、ジェーン・バーキンにはじめて取材する機会を与えてくれたのも、また編集長であった。

かつて僕が所属していた「ゲンスブール委員会」に対抗して「サルヴァドール委員会」なるものまで立ち上げたのだけれど、結局、南仏でのサルヴァドール邸訪問取材の権利を僕に譲ってくれたのも、他でもない氏であるし、以前に書いた通り、ギィ・ペラート氏を紹介してくれたのも氏である。

亡くなった人の話ばかり続いて縁起が悪いが、かつて「VISAGE」という伝説の雑誌でジャック・タチの魅力を教えてくれたのも間違いなく氏(これはマガジンハウス刊ではなく小野郁夫の名前で編集長をつとめていたのだが)である。
それより何より、これはまだ最近の話、僕がはじめて「blog」という媒体を知った(悪くない媒体と知った)のも氏のかつての「fablog!」によってだったのだ。
(現在の「triple mo' fablog」はこちら

カフェよりも前から喫茶を愛し、代官山と鎌倉と銀座を闊歩し、永遠の趣味人である「ぼくらの伯父さん」といっても、僕の周りに反論する人はひとりもいないだろう(ご本人以外は)。

自由な時間が出来たからと、「久しぶりにお会いしたく(実のところ、サルヴァドール氏追悼ディナー以来お目にかかっていないのである)…」とランデヴーを申し込むも、タイ〜鹿児島〜東京〜アメリカ西海岸と旅が続いている様子、さらに僕も東京〜福岡〜長崎〜軽井沢〜フランスと浮遊していてなかなかスケジュールがあわず来月までおあずけになった。



こうやって頂いたはがきを公にするのも失礼かとも思ったけれど、そこに記された言葉に僕も強く共鳴しましたので、どうぞお許し下さい。

Move around. Go travelling....

スーザン・ソンタグのその言葉は今年最初の「Our Man」からのメッセージでもあった(#)


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by cherchemidi | 2009-10-08 02:51 | monologue
à la fin de l'éte
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季節に明確な節目はつけにくいものだけれど、今年の僕の場合、9月1日は「夏の終わり」であったような…。

その暑さは台風一過のせいのようだったけれど、朝からの「今日は最後の夏の日ですよ」というような空気に負けて、ランチの前にすでに生ビールを2杯頂いた。
この夏の間、1ヶ月半ヴァカンスで東京に滞在していたムッシュ・デルベスと最後のビールを飲む。
彼は代官山に滞在していたから、駅前の(冴えない)カフェのテラスがいつもの待ち合わせ場所である。テラスは禁煙、店内は喫煙という奇妙なシステムには、フランス人じゃなくても違和感を覚えるはず。そのテラスでNMEなんかを読んでる男が、ムッシュ・デルベスだ。
「この辺ってモントルグイユ通りみたいだ」という彼の言葉に大きく賛同。「じゃあここはさしづめカフェ・エティエンヌ・マルセルといった感じだろう」とか。

蝉が飛んできて、すぐ脇の柱に止まった。エティエンヌ・マルセルには蝉はいない。パリには蝉がいない。南仏にはたくさんいるのだけれど、どれも小さい種類のものばかりなので、日本の大きな蝉を見るとフランス人は一様に驚く。


彼だけではない。東京にいたフランス人たちはみんないなくなってしまった。
ちょうど先週末は、6年間を東京で過ごしていたアーティスト、シリル・デュバル (Item Idem) くんが東京のアパートを引き払うというので、週末にさよならフェットがあった。実際のところ、彼はすでにこの半年間は東京に住んでいなかった。ある日はパリ、ある日はベルリン、ある日はモスクワ、ある日はNY、6月にはフィレンツェのPITTIではコレット・チームに同行中の彼に遭遇した。そんな具合のノマドなのである。富ヶ谷のビルの最上階、メゾネットになったペントハウスのようなその屋上テラスで夜風に当たったとき、すでにその風には秋が入り込んでいたのを覚えている。






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同じく週末、是枝監督の『歩いても 歩いても』をDVDで観た。
これは去年だったかヨーロッパに向かう飛行機の中で観始めたものの、なぜだか途中で止めてしまった記憶があった(こういった日本映画はむしろヨーロッパから日本に戻ってくる帰国便で観た方がしっくりきたりするもんだ)。
その映画にはとても「日本の夏」な印象があったから、再度観直したくなったのである。面白いことにその機内で“途中で止めた”というのは、僕の思い違いではなかったのかというほど、ほとんど9割、最後まで観ていたのだ。ああ、これも夏の終わり。





代官山でビールを飲んでいい気持ちになって、アトリエに戻ろうとしていたのだけれど、今日は「映画の日(鑑賞料1000円)」だと気がついて渋谷で映画でも観ようと思いついた。思いついたのはいいけれど、見たい映画が全くない。渋谷>『HACHI』!というストレートな連想もあったが、ひとりでは笑えなさそう(泣いてしまいそう)だからパス。

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それで思い出したのが『色即ぜねれいしょん』だったのは自分でも意外すぎる。
とはいえ「みうらじゅんさん」原作というのが頭の隅っこにあって、6月には試写会に足を運ぶも満員で観られないという経緯があったから、この奇妙なタイトルがずっとこびりついていたようだ。
まったく青春ノイローゼな具合のこの映画を、どうして、ひとり、この夏の太陽の下に観たのかは分からないが、後で試写状のキャッチをみてハッとした。はは、ずっと「くすぶっている」僕のような人間にはお似合いだったのかもしれない。劇場を出るとそこはもう陽が沈んだ渋谷・道玄坂の雑踏で、僕はまたすぐに冷たいビールが飲みたくなった。


そんなわけで今年も「夏の終わり」が終わって、子供たちは学校に戻っていく。
朝、成田からパリに発つ直前に生ビールを飲んでいるというムッシュ・デルベスから電話を受ける。
僕は水出しの麦茶を飲んでいる。僕の東京の毎日はさして変わらない。
by cherchemidi | 2009-09-02 14:39 | monologue
un dimanche, un arc-en-ciel
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| photo: sk |

東京、日曜日、夕暮れ時の大きな虹。
よく見ると二重に。

赤から紫まできれいにグラデーションした、巨大なアーチ。

それぞれ写真をクリックして大きな画像で入り組んだ光を見てみてください。


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| photo: sk |


太陽の沈んでいく西の空もいつも以上にドラマティックで、なにか不思議な日曜日は暮れていった。
by cherchemidi | 2009-07-19 23:54 | monologue
La Chapelle Matisse

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| La Chapelle du Rosaire par Henri Matisse, Vence | photo: sk |


2007年の夏の回想。

地中海か大西洋か、迷った挙げ句に結局南に向かった最大の理由は、この村をふたたび訪れたかったからだ。昔のパスポートを引っぱり出してみないと正確なことは分からないけれど、おそらく15年ほど前の夏、ニースからバスに乗って訪ねた村、ヴァンス
見るべきところは、「マティスのロザリオ教会」ただひとつと言ってしまってもよい。
アンリ・マティスが晩年、この村に移り完成させた教会である。

今回もニースからのバスで日帰りの旅を計画する。
1時間と少しで地中海を見下ろす山間の村、ヴァンスに着くのは覚えていたのだが、きれいにアスファルト舗装された小さなバスターミナルで運転手に「終点です」と言われ、「え、ここがヴァンスですか?」と確認してしまった。
大きなスーパーやマンションのような建物の前を抜け、不安に思いながらも2分も歩くと、記憶の片隅にこびりついた見覚えのある景色に再会する。村はすっかり町に変わってしまっていたのだ。もちろん昔ながらの可愛らしい小さな村の部分は残ってはいながらも、かつての「プティ・ヴィラージュ」な面影を思い描いていただけに、その変貌ぶりには少なからずショックを受けてしまった。

それでも中心から15分ほど歩いた山の中に立つそのチャペルは、記憶の片隅の印象とまったく変わらないままで地中海を見下ろしていた。

まっしろな階段を下りてまっしろな礼拝堂へ。
壁面全体には黄色と緑と青のステンドグラス、そして真っ白なタイルに描かれたマティス流の宗教画、天高く真っ白なその空間は、南の光によって最大限にその魅力を完成させている。
しばらくは動けなくなるくらいに感激してしまった。

残念ながらチャペルの中は撮影禁止。お土産としてそのチャペル内の様子を撮ったスライドのカラーポジが売られていて、それは15年前に買ったものと同じだった。
さらに今回撮った下の写真は15年前に撮った写真と同じ構図だった。

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地中海に面したコートダジュールにはアーティストが手がけた多くの礼拝堂が点在する。ニースとモナコの間にある港町、ヴィルフランシュ・シュル・メールのコクトーの礼拝堂も圧巻だったのを覚えているのだけれど、マティスのロザリオ教会の光の演出を目にしてしまうと、同じレベルでは到底比較できないほどである。

礼拝堂を後にするとき、人生が終わるまでに僕はあと何度ここを訪ねることが出来るのだろうという思いがよぎってしまい、僕は何度となく後ろを振り返りながらそのゆるやかな山道を下った。

(また思い出したら、つづく)


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by cherchemidi | 2008-08-01 14:14 | monologue
le nom en bleu
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| Cimetière du Père-Lachaise | photo: sk |

早朝に目を覚ましてペールラシェーズ墓地に向かった。
礼拝堂の次は墓地…である。
2月の心の中の約束を果たさないではいられなかった。
ペールラシェーズを訪れるのは実は2度目である。

1度目は確か1990年の夏休み、そこを友人の誘いで訪れ、オスカー・ワイルドの墓石の前と、ジム・モリソンの墓石の前で記念写真を撮った。
その当時はなぜ、フランス人ではない2人の著名人がここに眠るのか、深くも考えなかったし、今のようにインターネットで検索するような簡単な回答が得られる術もなかったのだ。さらにコレットという作家さえ知らなかったはずだ。

モンマルトル、モンパルナスよりもはるかに巨大なその墓地では、地図なしで目的の墓に辿り着けるようには思えなかった。かつてはセルジュの墓も家も、初めて訪れたときには、地図を開く必要さえなく、導かれるように、そこに辿り着いたものだ。

かといって、2月に埋葬されたばかりのアンリ・サルヴァドールの名前が、墓地のガイドマップに載っているとは考えられなかったので、僕は迷わずコンシェルジュを訪ねた。入り口に「ここにはトイレはありません」と書いてある建物。
端末をたたいて調べてくれる女性職員が、「アンリ・サルヴァドール氏がここに埋葬されているのは確かなの?」と聞いてくる。
「はい、僕の読んだ新聞記事が間違ってなければ…」と答えながらも一瞬不安がよぎる。
数分後「ヴォアラ」と通りの名前と番地を手渡され、地図でメインの入り口から最も遠い地区を指差される。

整備された墓地内は公園のよう…ではあるが、ところどころに無縁になったと思われる荒れた墓石群を見ると、やはり心地の良いものではない。パリの町中には普段見たことのないカラスという黒い鳥が、ここには不気味に存在している。
それでも夏の朝の光と、墓地の澄んだ空気は素晴らしく心地よく、僕の回りを取り囲む。その朝日に向かってシャッターを押すとびっくりするくらい真っ白な写真が撮れていた。

歩くこと20分ほど、墓地の左端の一帯はパリを見下ろすような丘になっていて、有名な政治家らしき豪華な墓が並んでいる。
その一角にひっそりアンリじいさんの眠る墓石を見つける。
朝の光の反射がまぶしい白い石に、彼の名前と「1918 - 2008」という年号が刻まれている。地中海のような紺碧の青い文字。
幸いにもあたりには誰もいなかったので、ひとり墓石の前にひざまずいて、しばらく過ごした。
その後、何人かの観光客がエディット・ピアフの墓を探して集まってくる。サルヴァドールのちょうど真後ろにあのエディット・ピアフは眠っているのであった。
どんな直接的なつながりがあったかは定かではないのだけど、50年代〜同じフランスの歌謡界で活躍していた2人が、隣同士で眠っているのをみると、奇妙な運命のようなものを感じてしまう。

にぎやかになったその周辺から僕はそっと去ることにする。
夏のまぶしい太陽の中で再会することが出来たアンリじいさん、僕の手にはひんやり冷たい感触だけが残った。

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by cherchemidi | 2008-07-25 16:39 | monologue
La Médaille Miraculeuse
東京からパリに着くと、決まって次の日は朝早くに目が覚めてしまう。原因の比率で言うと、それはジェットラグ以上にパリにいるという高揚感のためであろう。

6月下旬、パリに着いて、翌朝も朝日とともに目が覚めた。クロワッサンとノワゼットで軽くプチ・デジュネをとると、すぐに自転車でセーヌに向かってみた。ホテルはマレである。どういうわけか、無性に左岸に渡りたくなった。朝日を浴びるセーヌ河はいつものように美しく、僕は立ち止まってカメラを取り出そうかとも思ったのだけれど、夏の朝の風を切る、その感触が心地よすぎて、自転車のペダルを踏み続けてしまった。
どこへ向かうわけでもなく、7区、リュ・ド・バックのいつものチャペルに着いていた。引っぱられるように。


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7区、バック通りの140番、フランス好きの方には有名な「奇跡のメダイユの聖母の礼拝堂」Chappelle Notre Dame de la Médaille Miraculeuse である。小さなチャペルながら、清楚で幸福感に満ちた場所で、なぜか長年このバック通りに縁のある自分にとっては、足を運ぶことの多いチャペルである。
2月のサルヴァドール氏が亡くなった朝も、僕はそのニュースを知らないまま、この教会で朝のお祈りをしていた。

パリに着いてすぐにチャペルへ向かう。昔なら間違いなく、まっすぐにブティックやらレコード屋やら蚤の市に奔走していた自分であるから、ずいぶん大人になったものである。そういえば今回はSOLDEでも一切洋服を買わなかった。

さて、この礼拝堂の名前にもなっている「奇跡のメダイユ」とは、手を広げたマリア像が彫られたメダルで、なんでも1830年、修道女だった少女カタリナのもとに聖母マリアが3度現れ、そのお告げに従ってメダルを作り、人々に恩恵を授けたのがはじまりだという。この聖女カタリナは亡くなってもその遺体は腐敗しないまま、今もこの礼拝堂に眠っている。

敬虔なカソリック教徒ではない自分に、それほどの奇跡は起きないにしても、このメダイユを身につけていると妙な安心感と幸福感に包まれるのを感じる。最近ではひとときたりとも首から外せなくなってしまった。

この金のメダイユを首からさげている僕に対しては、多くのフランス人が想像以上の反応をくれるわけであるが、その多くは「君はいつから神を信じているのか?」とか「イエスを信じているのか?」といったもの。カソリックが根付いた国において、キリスト教も仏教も神道にも同じように信仰を持つ日本人は理解できないのかもしれない。あるいは「奇跡のメダイユの礼拝堂をよく知ってるね」と感心されたり、「7区のあの礼拝堂だね」という反応もある。
先日、エディ・スリマンに再会した際も、まず最初に話題になったのは「君のそのメダイユは、あのリュ・ド・バックの礼拝堂の…?」ということであった。さらにそのメダイユが、彼自身がデザインしたゴールドのネックレス・チェーンに通されていることに、エディは一目見て気付いていた。

首元のメダイユをなでれば、7区の幸福な礼拝堂の気を感じ取ることが出来る。

神のご加護を感じながら、今日もパンと葡萄酒を頂きましょう。
LA PROTECTION DE DIEU est TOUJOURS LA !


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| photo: sk |
by cherchemidi | 2008-07-23 19:57 | monologue
Reverence
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| Paris VII, le 13 février 2008 | photo: sk |

(La Vie C'est La Vie からつづき 2月13日のこと)

東京への飛行機はエールフランスの深夜便である。マッシーという郊外、いかにもウェルベックがモチーフとして好みそうな死んだ町のはずれにあるRERの駅。セバスチャン・テリエのリハーサルを満喫したあと、一足先に会場を去った僕は、その駅からロワシーまでRERのB線に乗る。夜のRERのB線。普通に考えたら誰もこんな電車に乗りたいとは思わない。“ロジェ・タロンのデザインした”などというチャーミングな前置詞も今では誰も語ることさえなくなってしまったRERの車両は相変わらず小便臭く落書きだらけだ。バンリュー(郊外)からバンリュー(郊外)へ。陰気すぎてiPodも文庫本も出す気も失せてしまうほど。素晴らしいセバスチャンのライヴのことや、飛行機のチェックインが少しおくれてしまう心配などが頭をよぎりながら、そのうすら寒い車内で70分以上揺られるのである。
途中、僕は何気なく車内の床に散らかった無料のタブロイド版に目をやった。表紙はアンリで、その死のことが報じられているようだ。この車両で他人の目を気にする必要もないのだが、それでも小心者の自分はちらりと周囲に目を配ってからその読み捨てられた夕刊を拾い上げてアンリの訃報に目をとおす。RERの床に落ちた夕刊からそんな知らせを知るのは切なすぎる。
着いたのは22時前だったか、夜のロワシーは閑散としている。
やるせない気持ちで乗ったエールフランスの機内でもテレヴィのニュースでサルヴァドールの死を報じていた。僕はようやくiPodは取り出したものの、機内でアンリの歌声を聴く自信がなかった。涙を流さずにその歌を聴くことは出来ないのが分かっていたからだ。
僕が充分にお金に余裕があり、さらに東京に締め切りの迫った(過ぎた)仕事が待っているというような状況でなければ、僕は間違いなくチケットを変更して(あるいは買い直して)、もう数日フランスの滞在を延ばしたに違いない。
果たしてどのようにして連絡をとるかは別として、正装して葬儀に駆けつけることだって出来たはずだ。
2月13日、ヴァンドームの別宅で息を引き取ったアンリ・サルヴァドールは16日にマドレーヌ寺院で葬儀が執り行われ、ペール・ラシェーズの墓地に眠ったという。
次のパリでは白い花を持ってペール・ラシェーズを訪れようと思う。
by cherchemidi | 2008-02-17 15:37 | monologue
La Vie C'est La Vie
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| photo: sk |

アンリ・サルヴァドールが亡くなった。その悲しい知らせを知ったのは、2月13日、パリを発つ日の夕方のこと。テレヴィのない友人宅に寝泊まりしていて、その朝の訃報を知らぬままに午後まで過ごしていた。
ただその朝、早起きして、7区の教会を訪れたのは、今思えば偶然ではなかったのかもしれない。いくつかのランデヴーをこなして、夕方、郊外のセバスチャン・テリエのリハーサル会場を訪れる途中、車のラジオから流れるニュースでその訃報を聞いた。
ここのところ2月には似つかわしくない美しい太陽が輝く日が続いていたフランス。ちょうど夕日が沈む時間の美しい時間。その日、車中から見る夕暮れは、そのニュースを聞く前からことさら美しかった。落陽を人生の終焉にたとえるような在り来たりの表現を使うのは厭なのだが、まさに南仏の太陽を愛し、太陽のような笑顔を振りまいたアンリ・サルヴァドールのことを、その沈む夕陽を見ながら想わずにはいられなかった。
ラジオはその知らせの後、アンリのトラックを一曲流したのだけれど、その後には通常の流行歌が垂れ流された。アンリは昨年の夏に90歳を迎え、年末にはパリで“最後の”引退公演を終えたばかりである。
車に同乗していたのはレコード・メーカーズのステファンとマーク。このニュースに関しては、僕らの間ではいくつかのコメントをしたにとどまったのであるが、僕は郊外のその会場に着くまでの間、無口のままアンリのことばかり考えていた。

(つづく)
by cherchemidi | 2008-02-14 22:04 | monologue
à Roissy
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| photo: sk |

ロワシー、シャルル・ド・ゴール空港。
チェック・インのあと空港内でぶらついていたら、JUSTICEとPedroに遭遇した。
ちょうど東京より着いたばかりの彼ら、自分はまさにその飛行機で東京に向かう。
まったくのすれ違い。
日本のツアーの成功やエトセトラを興奮気味に語るのを聞いていると、
今回のツアー、声をかけて頂きながらも撮影に同行できなかったのを残念に思った。

この2つのダッフル・バッグは、グザヴィエと僕とでおそろいである。
初めての取材の際、グザヴィエは「アンシャンテ」のあいさつの直後に、
僕の革ジャンを試着させてくれと言ってきたものだが、
今やディオールの革ジャン以外で彼の姿を見ることはない。

そう言えば、今回のパリはほんの2週間、
それほど出歩くチャンスもなかったにも関わらず、
マレで犬と散歩中のギィ・マン(下の写真の金のマスクの人)とすれ違ったりと、
素敵な偶然の出会いが続いたような気もする。

ただし、自分がロワシーで抱く気持ちというのは、
何年経とうが、どこのターミナルだろうが、相変わらず同じである。
パリから離れたくない…。
by cherchemidi | 2008-01-30 11:57 | monologue



par 梶野彰一
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